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5☆『観察力の鍛え方 一流のクリエイターは世界をどう見ているのか』の読書感想

 今夜の読書感想は、『観察力の鍛え方 一流のクリエイターは世界をどう見ているのか』(著者:佐渡島庸平、発行所:SBクリエイティブ㈱、初版:2021年9月15日)です。

※記事中の「筆者」は当ブログの管理者のことです、「著者」と紛らわしいですが現在のところブログ内全てを筆者で通しているため悪しからずご了承ください。

不惑

 40代を迎えて、何しろ惑うことが増えていく一方なのに、何故孔子は「不惑」と説いたのか、筆者には全く分かり得ない偉人の発想だと思っていた。思えば、わからないことだらけの世の中なのに、どこかで正解を追い求めていたということなのであろうか。

 なぜ論語で「不惑」というのだろうかと考えた。自分は惑わなくていいような正解を知らないと思った。でも、ふと、そうではないかもしれないと気づいた。あれが正解かもしれない、これが正解かもしれない、と惑わなくなる。それは、絶対的な正解を手に入れるということを意味しない。まったく逆で、「わからないこと」「あいまいなこと」を受け入れられているから、惑わず、なのだ。正解を思い求めるのをやめること。わからないに向き合い続けるのが、不惑、40歳頃なのだ。

 著者は、「わかる」ということは全く理想の状態ではなく、会話の中で「わかりました」と言えば、それは会話の終わりを意味するし、思考の停止を現している状態だと説く。ネットの普及により知っていることの価値が下がっていくのと同時に、わかることの価値も下がった。わからない状態やあいまいな状態において、どう思考しどう行動するのかの価値が、相対的に上がってきている現代では尚更のことだと。

創造的であること

 「婦人と老女の絵」という、見方によって婦人にも老女にも見える絵があるが、筆者はどうも凝り固まった見方しか出来ず、何回見ても「婦人」にしか見えない。悔しいのでネットで調べ、やっとのこと老女としても見ることが叶った。いやはやどうにも凝り固まっているわけだが、そんな筆者にもヒントと言えるものを提示してくれている。

 オリジナリティとは、型がないのではない。
 型と型を組み合わせるときに生まれる。いかに遠い型と型を組み合わせるかが革新を生み出す。だから、「革新は、辺境から生まれる」と言われるのだ。オリジナリティがあるものをつくるためには、型を携えて、辺境へ行く必要がある。

 とかく独創性を大義に物事をはしょってしまう傾向が無きにしも非ずだが、基本に忠実に、模倣を厭わずに取り組むことが示唆されている。

 それぞれの人の「感情」「実感」が入ったものが、「創造的」だと考えている。つまり、「創造」とは、一部の人の特権ではなく、すべての人ができることだ。「感情」という見えないものを観察することができれば、創造的になれる。

 創造性を語る時に、ここまで直球で感情から説明されたことがたぶんこれまでなかったこともあり、創造性がより身近でワクワクするものに感じられる一節と言えよう。

幸福のエッセンス

 著者が、感情を使いこなすことは、幸せへの近道かもしれない、と言うように、自身の感情の捉え方や扱い方、他者の感情への共感や創造力といったものが人生の浮き沈みには如実に直結する。感情を理解しようとすることで、自分や他者の状態への問いと仮説が回りやすくなるという。なるほど、一呼吸置くということに通じる。
 20世紀前半のフランスの哲学者アランが、『幸福論』で指摘した「悲観主義は気分だが、楽観主義は意志である」というフレーズは感情を使いこなすイメージに役立つ。

感情を理解するためにまず大切なのは次の2点だ。

  • 感情とは選ばされているのではなく、自ら選んでいる
  • 感情にいいも悪いもない

 この前提を踏まえて、何故自分の感情が湧き起こっているのか、何故他者がそのような感情に満ちているのか、を一考することは社会生活において役に立つことは想像に難くない。最終的には、感情と理性が対立するのではなく調和していく、それこそが人の成長なのだろうと、論語従心という考え方になぞらえて思考を巡らせている。深いな、もうこの辺までくると、佐渡島マジックにかかっている。

 感情を理解する営みの一つとして、著者が携帯の待受画面に使っているという「ブルチックの感情の輪」をもとに、「悲しさ」と「切なさ」の違いを解説している。「悲しさ」が、情動と言われる身体も反応する本能的な感情であるのに対し、

「切ない」は、「悲しさ」と「信頼」の混合感情なのだ。

 この混合感情をどう扱い、表現し、感じることが出来るかが人間の人間たる所以であり、面白さと奥行きだ。自分の感情を観察することで、自然と行動が変わる。幸せへの第一歩だと思う。

著者も40代だが、40代で出会えて良かったと思う一冊。

人は関係性の中でのみ力を発揮できる

 関係性に注目すると、個人とは、確固としたものではなく、すごくあいまいなアメーバのように揺れ動くものになる。関係性が変わると個人の在り方も変わる。

 筆者の人生の各ステージを振り返ってみても、自身の力量や個性といったものが活かせるのも活かせないのも、周囲の環境に因る所が大であったことはしみじみ思うものである。個人に注目するよりも関係性に着目し、関係性を最大化していくことに注力していくことが重要であるというインパクトのあるフレーズだ。

「彼はこんな人だ」と言わずに、「二月に彼はこんな人だった」と言うことがとても重要です。なぜなら、その年の終わりには、まったく違っているかもしれないからです。
 重要なのは、自分の先入観や固定観念、意見ではなく、いつも溌剌とした心をもって他の人間に会うことです。
※20世紀のインドの哲学者クリシュナムルティの言葉として引用

 一方で、人は簡単には変われない。筆者のいる高齢化著しい職場においても、あらゆる場面で硬直化した人との営みが続けられているし、大の大人がそう簡単には変わらないことが現実での一面では真理かもしれない。ただ、いつも溌剌とした心をもって他の人間に会う、所謂一期一会の心持ちで過ごすことの方に生き方としての喜びが感じられ、惹かれるのは正直なところだ。

観察力とは

 観察力を鍛えることで見えてくる世界は、正解主義に囚われることなく、無意識で行っている行為を、本能に抗い全て意識下にあげること、自分や周囲の人の感情を理解しようと努め、人が幸福感を抱いて過ごしていく術であり、行き着く先は”愛”とその深め方なのである。

 いい観察は、「する」ではなく「いる」を見る。「する」は、結果が出る。結果で判断できる。だから、ていねいな観察は必要ない。「いる」というあいまいなものを観察しようと思うと、圧倒的な時間を一緒に過ごさなくてはいけない。そして、その時間の中で何も「する」ことなく、観察をしなくてはいけない。
 つまり、暇で退屈な時間を過ごさないと、あいまいな「いる」の観察にたどりつくことができない。「いる」を観察するとは、あいまいな、揺れ続ける人とその人の関係性を観察するということだ。

 「する」(=人が生み出したアウトプット、する前とした後とで始まりと終わりを区切ることが出来る)ではなく、「いる」(=存在していること、これからも存在すること)に焦点を当てる”愛”なのである。

 これまで述べてきたエッセンスは、無意識のまま、思考停止しない生き方の示唆でもあるわけだが、これは相当に面倒くさい生き方でもあるわけだ。ただ、「幸福は細部に宿る」をモットーとしている筆者には、とても馴染む考え方だと思われ大きな共感を覚える。加えて、筆者にも馴染みが有り好みでもある、平野啓一郎の『マチネの終わりに』『「カッコいい」とは何か』『私とは何か―「個人」から「分人」へ』、村上春樹の『風の歌を聴け』が取り上げられていることも、本書への没入に役立った。

 物事に対する編集者の洞察力、いや観察力の凄みを味わえる一冊であると共に、難しい概念を一般人にも解釈できるような平易なフレーズを用いて伝える力にも、編集者の実力の片鱗が散りばめられている。