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【父が娘に伝える大日本帝国の物語】<R002>靖國神社初参拝

 【父が娘に伝える大日本帝国の物語】<R002>本稿は、靖国神社初参拝に纏わる物語です。

 歴史は人の手を介して伝えられるものであるから、そこには取捨選択が有り、伝えられる側も人であるが故に感情が添えられる。置かれた立場により大義が何通りも存在するから、起こった事実とそれぞれの事情を多面的に捉えようといった意識がいつも肝要だ。我が国の歴史の物語に触れることが、自分の生まれた国に対する興味と愛着、自身のルーツに対する敬意、自分の頭で考える未来に繋がれば嬉しいと思う。

靖國神社の御祭神

 神社といえば、遠い大昔の偉い人が祀られているようなイメージもあるが、靖国神社の御祭神は、今からわずか約150年前の幕末の志士達を含む、戊辰戦争から大東亜戦争までの「祖国を守るという公務に起因して亡くなられた方々の神霊」が祀られている。

 靖国神社は、明治天皇の思し召しによって、明治2年(1869年)6月29日に建てられた招魂社が始まりで、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された。
 明治7年(1874年)1月27日に、明治天皇が初めて招魂社に御親拝の折にお詠みになられた、
「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」
(日本国の為に命を懸けて尽くした方々の名前もここ武蔵野の地にしっかりとどめ、玉垣で囲って神聖な場所としよう:筆者意訳)の御製に、靖国神社の由緒を知ることができる。

神門越しに拝殿を臨む

 その後明治12年(1879年)6月4日には社号が「靖國神社」と改められる。明治天皇命名された「靖國」という社号は、「国を靖(安)んずる」という意味で、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められている。

念願の初参拝

 とは言うものの、筆者にはそのような義理を語る資格はなく、東京近郊で育ち、大概の時間を東京近郊で暮らしてきたにも関わらず、この齢になるまでちゃんとしたお参りも出来ておらず、花見の酒盛りで一度訪れたに過ぎない場所である。

 靖国神社の精神と同じく英霊を祀る護国神社も全国津々浦々にあるが、花見と藤沢周平記念館を目的に訪れた山形県鶴岡市鶴岡公園にある「鶴岡護国神社」や、同じく山形県新庄市の最上公園で行われる、鰊(ニシン)の丸焼きが食べられる、”新庄カド焼きまつり”の会場にある「新庄護国神社」では、目的を異にしているので当然のごとくしっかりとお参りも出来ず、当時勤めていた職場の近くにあった「山形県護国神社」では、安産祈願をするといったような手合いで、全くもって英霊に対して申し訳が立たない。

拝殿

 不惑を過ぎて、小説を含む大東亜戦記ものを約100冊ほど読んできた中で、機が熟してきたとでも言おうか、しっかりとお参りしたい気持ちが強くなり、ある意味念願の初参拝となった。

遊就館

 靖国神社の敷地内にある「遊就館」は、国のために尊い命を捧げられた英霊のご遺徳に触れ、学んで欲しいという願いを籠めて、中国の古典から名付けられた、19の展示室に加え、玄関ホール、大展示室、特別陳列室、企画展示室と2つの映像ホールを合わせ、全部で25の部屋を擁する博物館である。

遊就館

 明治15年2月25日に開館された後、大正12年関東大震災での大破、昭和20年5月の空襲による被災を経て、敗戦後の昭和20年9月11日にGHQにより「遊就館令」が廃止され、64年に及んだ遊就館の機能は停止することになる。

 昭和61年7月になって、約40年ぶりに遊就館は再開され、靖國神社創立130年を記念して、平成14年7月13日、本館を全面改装、展示手法・展示内容も一新し、更に映像ホールを備えた新館を増設し、現在に至っている。

和歌にみる武人のこころ

 最初に我々を迎えるのは、”武人のこころ”と題した第1展示室にある、大東亜戦争にもその思想が色濃く影響を与えたであろう、和歌である。

  • 海ゆかばみづくかばね 山ゆかば草むすかばね 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ』
    (海に行ったならば水に漬かった屍になり、山に行ったならば草の生えた屍になって、天皇の元で死のう、後ろは振り返らない:筆者意訳
     作:大伴家持歌人奈良時代

  • 『君がため世のため何か惜しからむ 捨てて甲斐ある命なりせば』
    天皇のため世のためであればこの身が惜しいことなどない、その為に捨ててこそ甲斐のある命なのだから:筆者意訳
     作:宗良親王後醍醐天皇の皇子、室町時代

  • 『敷島のやまと心を人問はば 朝日に匂う山ざくら花』
    (日本人の心とは何か?と人から聞かれれば、朝日に美しく照り映える山桜のような心持ちだと答えるだろう:筆者意訳
     作:本居宣長国学者、江戸時代)

  • 『ますらをの悲しきいのちつみかさね つみかさねまもる大和島根を』
    (古から尊い武人の生命が捧げられ、その幾重もの積み重ねによって我が日本国は今も守られている:筆者意訳
     作:三井申之(文学者、昭和時代)

 日本国に脈々と流れ伝えられてきた各時代における天皇の元での民族思想を想起させ、この後に続くそれぞれの物語の(今では希薄になりつつある)大前提を確認させてくれる。

令和5年の特別展示

零式艦上戦闘機

 昭和15年すなわち紀元2,600年に制式採用された”零戦ゼロ戦)”。20ミリ機銃の搭載に代表される格闘性能と3,000㎞を越える航続力で、大東亜戦争初期には世界最強を誇った超メジャー機体であるが、間近で見るのはおそらく初めてだろう。

零戦(三菱零式艦上戦闘機52型)

艦上爆撃機”彗星”

 昭和18年に制式化した日本海軍最後の艦上爆撃機”彗星”。玉音放送後の最後の特攻とも言われる特攻で使用された機体でもある。展示されている機体は、中部太平洋西カロリン諸島ヤップ島の旧滑走路脇のジャングルで発見されたものを復元したものである。

愛知航空機艦上爆撃機「彗星11型」

寄り添いと感謝

 展示量が膨大なので、初回訪問ではとても細部を読み込むまでは叶わない。時系列に沿った歴史イベントや戦争をさせる側の展示物は軽く触れ、戦争をさせられる側の市井の人々の数々の物語に触れてきた。
 「靖国で会おう」を合言葉に散華されたこうした数々の物語に寄り添い想いを馳せることが大切で、今こうして我々が日本という国で安穏として暮らせていることへの感謝の念が自ずと込み上げてくるのである。

寄り添いと感謝を常に近くに持っておくため、御守りを購入。