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【父が娘に伝える大日本帝国の物語】<S003>昭和17年8月ー第一次ソロモン海戦 慎ましやかな喜びー

 【父が娘に伝える大日本帝国の物語】本稿は、昭和17年(1942年)8月ー第一次ソロモン海戦 慎ましやかな喜びーに纏わる物語です。

 歴史は人の手を介して伝えられるものであるから、そこには取捨選択が有り、伝えられる側も人であるが故に感情が添えられる。置かれた立場により大義が何通りも存在するから、起こった事実とそれぞれの事情を多面的に捉えようといった意識がいつも肝要だ。我が国の歴史の物語に触れることが、自分の生まれた国に対する興味と愛着、自身のルーツに対する敬意、自分の頭で考える未来に繋がれば嬉しいと思う。

「ウォッチタワー作戦」始動

 昭和17年(1942年)8月7日に連合軍はガダルカナル島を日本軍から奪取することを主目的とした「ウォッチタワー作戦」を始動し、ガダルカナル島近海を巡る長期に渡る血みどろの対日反攻作戦が開始される。

 8月7日未明に連合軍はガダルカナル島とツラギ島へ侵攻し、瞬く間に上陸。日本軍により飛行場が作られていたガ島へは無血上陸に成功する。 

午前6時すぎに、最後の電文がツラギから送られてきた。
「敵兵力大、最後ノ一兵迄守ル、武運長久ヲ祈ル」そして、通信は途絶する。
※一部漢数字を数字に置き換えています
『遠い島 ガダルカナル<新装版>』著者:半藤一利、発行所:㈱PHP研究所、初版:2022年7月29日

第一次ソロモン海戦

 米軍の反攻に対し、ラバウルの第8艦隊は即時に反応し、果敢な殴り込み作戦で対抗する。第8艦隊とは、昭和17年(1942年)7月14日に日本海軍が編成した艦隊である。

ラバウルに将旗をかかげ第8艦隊を指揮する三川軍一中将は、緊急電接到中の午前5時半、早くもラバウルにある麾下艦艇に出撃準備の完整を命じた。
※一部漢数字を数字に置き換えています
『遠い島 ガダルカナル<新装版>』著者:半藤一利、発行所:㈱PHP研究所、初版:2022年7月29日

 作戦中で航行中の各艦船に本隊への集結命令を発し、呼び寄せられるものは全て呼び寄せ、三川中将が直率して出撃し得る戦闘艦艇を、重巡5、軽巡2、駆逐艦1の計8隻まで調整した。

先任参謀神重徳大佐は、上陸時は敵も混乱を極めている、「殴り込みだよ。今日やらなければ、いつの日にやれるか判らない」といい、断々呼とした敵泊地への突入作戦を立案した。超人的といえるほどにファイティング・スピリットをむきだしにした。
『遠い島 ガダルカナル<新装版>』著者:半藤一利、発行所:㈱PHP研究所、初版:2022年7月29日

 東京の軍令部は、同海域に3隻の空母を擁する機動部隊を中核にした敵艦隊が存在している中での、第8艦隊がやろうとしている輸送船撃滅の作戦計画に驚愕し、軍令部総長永野修身大将は言下にこの案を退ける。

これは大胆を通りこした猪突猛進以外のなにものでもない。協同訓練を一度もやったことのない練度の低い艦隊を、真夜中に、海図さえつまびらかでない海面に突入させるなど、およそ無謀もいいところである
『遠い島 ガダルカナル<新装版>』著者:半藤一利、発行所:㈱PHP研究所、初版:2022年7月29日

 だが、軍令部参謀の中には同感を示すものがかなりおり、結果的に日本海軍の伝統である夜襲を許可する。

 14:30に第8艦隊、重巡1、軽巡2、駆逐艦1の計4隻がラバウルを出撃。16:42には全軍に訓示。

「帝国海軍の伝統たる夜戦に於て必勝を期し突入せんとす、各員冷静沈着宜しく其の全力を竭くすべし」
『遠い島 ガダルカナル<新装版>』著者:半藤一利、発行所:㈱PHP研究所、初版:2022年7月29日

 18:00を回った頃、セント・ジョージ岬の西で第6戦隊(司令官・五藤存知少将)の重巡4隻と合同し、ここに殴り込み部隊が勢揃いする。旗艦”鳥海”を先頭に”青葉”、”衣笠”、”加古”、”古鷹”、”天龍”、”夕張”、”夕凪”の順に単縦陣でガ島方面へ進む。

海戦は中央のサボ島沖、北にツラギ島、南にガダルカナル島

 23:26「単独指揮」を各隊各艦に下令(至近戦のため各艦毎に独立して艦長が戦闘指揮を執れという命令)後、「全軍突撃せよ」の命が下る。

 連合軍は揚陸中の輸送艦に対する護衛を3つの部隊に分けており、まずは南方部隊への奇襲でキャンベラを撃沈し部隊を退避に追い込み、続いて北方部隊を挟み撃ちにして、重巡3隻を撃沈した後、0:23全軍に引揚げを下命する。

  • 南方部隊
    重巡洋艦:オーストラリア(豪)、キャンベラ(豪)シカゴ(米)
    駆逐艦パターソン(米)、バッグレイ(米)
  • 北方部隊
    重巡洋艦ヴィンセンス(米)アストリア(米)クインシー(米)
    駆逐艦:ヘルム(米)、ウィルソン(米)
    朱字:撃沈青字:損傷

三川艦隊は若干の損傷を鳥海と青葉がうけたものの、喪失艦はゼロという完勝、しかも戦うことわずか45分という短節急襲の世界海戦史上の記録をもうちたてたのである。戦死35名、負傷52名。(中略)米濠軍将兵の戦死1,275人、戦傷709人にのぼる。
※一部漢数字を数字に置き換えています
遠い島 ガダルカナル<新装版>』著者:半藤一利、発行所:㈱PHP研究所、初版:2022年7月29日

 この第一次ソロモン海戦での日本軍による戦果は、アメリカ艦隊司令長官兼作戦本部長キング大将に、「自分に関するかぎり、戦争中でいちばん暗黒の日であった」と語らしめた。
 ガダルカナル島とフロリダ諸島の間にあるサボ海峡とその近海では、この後も幾度と無く海戦が行われ、多くの艦船が沈んだことから、後にアイアンボトム・サウンド鉄底海峡)と呼称されるようになる。

悲しむべき動脈硬化

「長官!反転してもう一度攻撃に行きましょう!」
「敵軍をそのままにしておくと、わが軍の爾後の作戦がきわめて難しくなってくる。敵は航空基地を完成し、輸送船団は揚陸を完了するだろう。敵は現在、戦闘精神を完全に奪われている。船団に向けて引き返しましょう」
『遠い島 ガダルカナル<新装版>』著者:半藤一利、発行所:㈱PHP研究所、初版:2022年7月29日

 ”鳥海”艦長の早川幹夫大佐は、敵艦隊との海戦に勝利した後も、本来の目的であるガ島への揚陸輸送部隊への攻撃を提案したが受け入れられず、ラバウル帰港後に書いた「鳥海戦闘詳報」に下記のように記している。

「ツラギ海峡夜戦に於いて敵艦隊を撃沈したる際、なお残弾は六割以上を有し、被害また軽微なりき。よろしく勇気を揮い起し、再び泊地に進入、輸送船を全滅すべきものなりと確信す。
 同輸送船には、ガダルカナル基地を強化すべき人員資材を搭載せるは明らかなり。またこれを全滅せる場合、敵国側におよぼすべき心的影響の大なるべきは、察するに余りあるところなり」
『遠い島 ガダルカナル<新装版>』著者:半藤一利、発行所:㈱PHP研究所、初版:2022年7月29日

 敵の揚陸輸送部隊を残置しての退却には、「その悲しむべき動脈硬化」という表現で批判もある。

それは、三川が麾下の艦隊将兵に下した命令は、「為シ得ル限リ夜間敵輸送船団ノ泊地ニ殺到之ヲ撃滅セントス」ではなかったか、ということである。その目標である輸送船を撃滅せんために、その前面に立ち塞がる敵艦隊を潰滅させた。これはわかる。ならば、戦果をあげたことに満足することなく、真の作戦目的である輸送船撃滅に向ってこそ、戦士の本分である命令遵守ということになろう。
『遠い島 ガダルカナル<新装版>』著者:半藤一利、発行所:㈱PHP研究所、初版:2022年7月29日

 危険を冒して輸送船に突撃しても、それを何隻叩き潰そうと金勲(金鵄勲章)にはほど遠い、といった思想が蔓延していたのではないか、とする。

 日本海軍という開明的といわれる組織は、ついに何を真の撃滅目標とすべきかの、戦略そのものにたいする省察もなく、行賞にたいする検討もなしに、戦争の終るまで大艦巨砲だけを敵として戦いつづけた。いいかえれば、金勲に関係する目先の戦術的効果にとらわれ、戦略的積極性に欠けること大であった
『遠い島 ガダルカナル<新装版>』著者:半藤一利、発行所:㈱PHP研究所、初版:2022年7月29日

 司令官三川軍一中将の戦後の回想は下記のとおり。

「まず敵の空母艦上機の迫撃をかわさなければならないと考えた。もちろん、その時反転して敵の橋頭堡に殺到すれば、敵の上陸部隊、輸送船団に大きい損害を与えることになったかもしれない。しかし、これは後になっていえることだ。また、いまになってみれば、敵の空母群はソロモン付近にいなかったのだから、再度突入しても、敵航空部隊による攻撃は受けなかったかもしれない。しかし、それもいまになって判ったことで、結果論にすぎない。その時は、敵の海軍をやっつけておけば、敵の陸軍がガダルカナル島へ上陸しても、日本の陸軍がうまくやってくれるだろうと考えていた。だから、戦場を離脱するのに、べつに心の迷いはなかった」
『遠い島 ガダルカナル<新装版>』著者:半藤一利、発行所:㈱PHP研究所、初版:2022年7月29日

 後世からは如何様にも語ることが可能ではあるものの(特にこの後のガ島への輸送の困難の極みを知る我々としては尚更のことだが)、攻めるべき時に攻めずに退却する(ダメ押しの攻撃をしない)といった例がしばしば散見される大日本帝国海軍。作戦目的の未徹底や作戦に複数の目的を掲げるやり方は、大日本帝国海軍という組織の悪しき慣例で有り限界だったと思わざるを得ない。

慎ましやかな喜びの真実

 旗艦”鳥海”がラバウル泊地へ帰還中の9日15時、”鳥海”の士官室ではラジオによる大本営の戦果発表に耳を澄ませていた。
 海軍報道班員として”鳥海”に乗り込み、この海戦に従軍した、小説家の丹羽文雄もその場に居合わせており、当時の士官(軍人)達の喜びの気持ちを文筆家ならではの巧妙さで表現している。往時の如何にも日本的な繊細な感情が汲み取れる。

 士官たちは顔を見合わせた。ほほえまずにはいられなかったのであろう。子供のようなきれいな笑顔が続いた。ラジオが切れてからも、その前をはなれない士官もあった。はにかんだように椅子に戻る士官もあった。自分らのしたことを内地から逆に報告されることが、それほどにも嬉しいのだろうか。その気持ちは私にはよく判った。しかしその割に陽気な騒ぎにならないのはどうしたのだろう。士官たちは喜びを表現するにも謙虚なのであろうか。各人はラジオの文句を胸の中で反芻しているらしい。一人の士官は黒板に向い、すらすらとラジオのとおりの文字を書いた。彼らの喜びには何かもっとおく深いものがあった。喜びを表すまでに先ず己が謙虚になってしまうようであった。喜びの仕方には清冽なものがあった。こころの奥底によくひびく琴線があり、一人一人が己のこころの底から湧き上る音に耳を傾けている風であった。内地流の、喜びの粗暴な表現は、士官はわれと絞めころしているのである。ラジオの発表を聞いてからの彼らの様子は、何かふかい聯関の紐でむすばれているようにひかえめに見えた。喜びにのって爆発する気配は微塵もなかった。喜びのそばでつつましく喜んでいる風であり、自分らのしたことを特に持ち出そうともしていないのだ。彼らはもはや一人一人ちがった感動をうけているのではなく、そんな区別はみとめられず、全体として喜びを大きくふかくわけあっていた。彼らの喜びははるか遠方のひびきととけ合っていた。おびただしい色彩と音を含んでいるようであった。月の夜のまわりが透きとおっているような喜びのもち方であった。
「嬉しいでしょうね、自分らのしたことがラジオで発表されるなんて・・・・・・内地は勿論、全世界に知れわたることですから」
 士官のひとりに私は言った。
「嬉しいのです」と彼はやさしい微笑でつづけた。「自分らのしたことが、陛下のお耳に達したのだと思うと、うれしいのですよ。ですからラジオの発表はうれしいのです。この上もない光栄です」
 私ははっと息をとめて聞いた。そうだったのかと、今になって士官たちのつつましやかな喜びの真実にふれることができた。
『海戦 【伏字復元版】』著者:丹羽文雄、発行所:中央公論新社、初版:2000年8月25日