遅くとも長女の小学校の卒業式でははっきりと実感したが、学生に団体で合唱とかされると、それだけで体育館や教室の持つバックグラウンドが纏わってきて、そこに流れている心地良くてどこか懐かしい感じのするそよ風を伴って、学生達のストレートな魂(ソウル)がぶっ刺さってくるからなのか、具体的な自身の過去の風景や思い出が浮かぶわけでもないのに、涙腺を触発する何かが込み上がって来る。吹奏楽とかシンクロするダンスとかでも同様だ。
長女のクラスの演劇の最後に演者全員が決め台詞を文字通り”決めて”きた時には、同様の感覚が込み上げて来たのを感じた。
薬高の文化祭、竜胆祭
竜胆(りんどう)祭は、今年で第62回を迎えた薬園台高校の象徴ともいえる伝統的な行事となっていて、受験生の志望動機にも挙げられ、コロナ禍以前は毎年6,000人超の人が訪れていたとされる県内有数の高校の文化祭である。
コロナ禍に加えて、昨年度から校舎の大規模改修工事が本格的に始まって、仮設校舎を使用しているため、仮設校舎の耐荷重による人数制限の制約もあって、スマホを利用したチケット制を導入する等、新たな試みが為されている。
この文化祭の全てのエッセンスを把握出来ているわけでは全くないが、竜胆祭の大きな特徴として、演劇の専門学校なのか?と突っ込まれるぐらいに、園芸科を除いた2、3年生の全クラスがクラス別に演劇の演目を脚本から何から一から作り上げて、大道具や装飾、衣装、音響や照明等裏方一切も含めて発表するという出し物がある。この一大イベントに向けて全校生徒が夏休みを通して準備を進めることになる。
また、園芸科が栽培している野菜がGET出来るのも楽しみの一つで、昨年は薬円台ピーマン、今年は薬円台ナスを購入して持ち帰る。
文化祭に見る長女の成長
昨年は演者として舞台に立った、家ではまだまだ子供だと思っていた長女だったが、外の世界(舞台で演じている)で観るとだいぶ大人な振る舞いで、なかなかの演技派にも見えて、正直驚いた。
最高学年の今年は、演者ではなく裏方の装飾を担当して、ねぶた師さながらの制作者としてクラスのアート大賞?獲得に貢献出来たようだ。
万人が必要だと思ったり共感したりすることではないことでも全然良くて、その時その瞬間に仲間達と以心伝心出来る、その今を仲間と共有する経験、誰かを想って喜怒哀楽を思い切り発露出来て、誰かに感謝して泣けて、だからこそ自分の確固たる居場所が実感としてあって、というダイナミズムを現在進行形で体感していることが素晴らしいと思う。
その後の大人になっていく人生の中で、それが実利で何かに生かされたり繋がったりするのかはよく分からないけど、人を巻き込んだり、巻き込まれたりする中での感情の機微の交錯した経験の全てが、人としての懐を深くしてその人の魅力に繋がっていくんだろうと思っている。このような人とのシナジーな関わりの中にあって何かを成し遂げたと思える体験から、素晴らしい世界を知ったことで、これからの人生でどんなに絶望的な状況が訪れようとも、希望を持てるようになれる気がしてくるのだと思う。
母校への「愛着」と「誇り」と「問い」
「毎年思うことですが、準備風景の中に、薬円台高校の「自主自律」の伝統を見ることができます。携わる生徒は変化しても、同じ景色が脈々と引き継がれていることは本当に素晴らしいことです。」と校長がパンフレットに書いているのを見て、以前に卒業生達が母校への「愛着」と「誇り」と「問い」を抱えて生きていく話を書いたことを思い出す。青山学院大学箱根駅伝優勝に想う母校への「愛着」と「誇り」と「問い」 - 246blog
きっと薬円台高校に根付く”らしさ”がいつしか自身の絶対的な誇りになって、これからの人生で迷った時にも勇気を与えてくれることになるのだろう。
長女も自分自身の努力と恵まれた環境や出会いによって、母校への「愛着」と「誇り」と「問い」を授かっていくだろうことが実感出来て、嬉しく思うと同時に頼もしくも感じ、これで大丈夫だと、なんだか安心した心持ちになった。
夕食の薬円台ナスを食べながら、3年連続で訪れている奥さんと次女が来年の竜胆祭にも行きたいね、というような話(来年は長女も卒業してしまって家族の誰も通っていないけど卒業生の家族という立ち位置?で行こうみたいな話)をしているのを聞くと、それだけ観客の心をも掴んだ文化祭だったのだろうと思う。
長女は、後夜祭明けてコロナに罹患して自室で隔離静養中・・・。