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【父が娘に伝える大日本帝国の物語】<S001>昭和16年9月ーよもの海ー

 【父が娘に伝える大日本帝国の物語】<S001>本稿は、昭和16年(1941年)9月ーよもの海ーに纏わる物語です。

 歴史は人の手を介して伝えられるものであるから、そこには取捨選択が有り、伝えられる側も人であるが故に感情が添えられる。置かれた立場により大義が何通りも存在するから、起こった事実とそれぞれの事情を多面的に捉えようといった意識がいつも肝要だ。我が国の歴史の物語に触れることが、自分の生まれた国に対する興味と愛着、自身のルーツに対する敬意、自分の頭で考える未来に繋がれば嬉しいと思う。

御前会議前日の参内

昭和16年9月5日

統帥部と首相の参内

 翌日の御前会議を前に、近衛文麿首相が参内して(皇居に行って)内奏した(天皇に報告した)ところ、翌日の議案である「帝国国策遂行要領」に記載する項目の順番について、陸海軍の統帥部の意向を確認したい旨言われたため、陸海軍の総長(陸軍参謀総長 杉山元大将、海軍軍令部総長 永野修身大将)と近衛の3人で改めて参内拝謁することとなる。
 天皇陛下としては、外交交渉がまずあって、どうにもならない場合に戦争準備がある、という認識だが、そのような順に書かれていないと思ったということだ。

陛下には「之を見ると、一に戦争準備を記し、ニに外交交渉を掲げている。何だか戦争が主で外交が従であるかの如き感じを受ける。此点に就て明日の会議で統帥部の両総長に質問したいと思うが・・・・・・」と仰せられた。
『海軍戦争検討会議記録』著者:新名丈夫、発行所:㈱KADOKAWA、初版:2022年10月10日

 3名での拝謁の際、米英との決定的対立の回避に向けた外交交渉に重きを置くことを確認するも、「帝国国策遂行要領」の文言変更(一項の戦争準備と二項の外交交渉の順番の入替え)には踏み込まず曖昧なままとなったことは否めない。
 また、事後の永野の証言や近衛の著書では、天皇が杉山を問い詰めている場面が回想されており、天皇が陸軍参謀総長の言をほとんど信用していないことが垣間見える。それだけに、天皇の言葉を持ってしても戦争への趨勢を止められない得体の知れない当時の世情を思うのである。

杉山参謀総長を一喝

 拝謁時の天皇と杉山のやりとりが拝謁した三者三様で残されているが、支那事変勃発の際も1ヵ月で終らせると言っていたのに、4年も経ってしまった今でも先が見えない状況にあって、その理由が支那の奥地が広い云々と言うが、太平洋はもっと広いじゃないか、それにも関わらず、今回の南方方面作戦が3ヵ月を見込むと言っているが、それも出鱈目なんだろう、といった主旨だ。
 当の杉山の著書での回想では、この機会に自身の考えを述べた、と他の2人とは少々赴きが異なる内容になっているが(陛下に一喝されて黙り込んでしまった、と自身で公にしたくない気も分からんでもないが・・・)、永野と近衛は大凡主旨が一致しているので下記に引用する。

  • 永野修身の証言(昭和20年12月22日の旧海軍の座談会)

議案の一・二項の順序につき御言葉の後、杉山<元>参謀総長に対し「この作戦は見込みはあるか」との御下問あり。杉山が「大抵遂行の見込みがあります。南洋方面は3ヵ月くらいで片付く見込みでございます」と奉答するや、「汝は支那事変発生当時、作戦は1ヵ月で片付くといったが、4年経っても片付かぬではないか」との御言葉あり。杉山は「あれは支那の奥地が広くて、見込み違いとなりました」と言上す。
 御上は「太平洋は支那よりも広いぞ」と御諚<天皇の言葉>ありたり。杉山、恐懼一言もなし。
※一部漢数字を数字に置き換えています
『海軍戦争検討会議記録』著者:新名丈夫、発行所:㈱KADOKAWA、初版:2022年10月10日

陛下は杉山参謀総長に対し「日米事起らば、陸軍としては幾許の期間に片付ける確信ありや」と仰せられ、総長は「南方方面だけは3ヵ月位にて片付けるつもりであります」と奉答した。陛下は更に総長に向わせられ、「汝は支那事変勃発当時の陸相なり。其時陸相として、『事変は1ヵ月位にて片付く』と申せしことを記憶す。然るに4ヵ年の長きにわたり未だ片付かんではないか」と仰せられ、総長は恐懼して、支那は奥地が開けて居り予定通り作戦し得ざり事情をくどくどと弁明申上げた処、陛下は励声一番、総長に対せられ「支那の奥地が広いと言うなら、太平洋はなお広いではないか。如何なる確信あって3ヵ月と申すか」と仰せられ、総長は唯頭を垂れて答うるを得ず、
※一部漢数字を数字に置き換えています
『海軍戦争検討会議記録』著者:新名丈夫、発行所:㈱KADOKAWA、初版:2022年10月10日

有耶無耶なままとなった議論

 しかし、この問答があっても、外交交渉最優先への道には進んで行かない。このままではジリ貧な状況であるといった趣旨の永野の発言もあってか、もともとの懸念事項であった、「帝国国策遂行要領」に記載されている項目の順番については、両総長のその場での外交交渉重視の同意に甘んじて、項目の順番変更を認めさせるには至らない。

  • 永野修身の証言(昭和20年12月22日の旧海軍の座談会)

「杉山に対して、この作戦は確実にできるかとの御言葉のように拝しましたが、戦の要素には確実ならざるもの多く、その成功は天佑によらざるべからざる場合もございます。ただ成功の算と申すものはございます。例えばここに盲腸炎にかかれる子供あり。そのままに放置せば、死を免れず。手術するも70%までは見込みなきも、30%助かる算あることあり。親としては、断乎手術するのほかなき場合がございます」と申しあげしところ、御気色和らぎたり。ここに於て、永野は「原案の一項と二項との順序を変更いたし申すべきや、否や」を奉聞せしが、御上は「それでは原案の順序でよし」とおおせられたり。
※一部漢数字を数字に置き換えています
『海軍戦争検討会議記録』著者:新名丈夫、発行所:㈱KADOKAWA、初版:2022年10月10日

陛下は重ねて「統帥部は今日の処外交に重点をおく主旨と解するが、その通りか」と念を押させられ、両総長共其通りなる旨奉答した。
『海軍戦争検討会議記録』著者:新名丈夫、発行所:㈱KADOKAWA、初版:2022年10月10日

第6回御前会議

昭和16年9月6日

明治天皇の御製

 この会議において天皇は、日露戦争開戦時に明治天皇が詠まれたとされる歌を読み上げます。

 よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ
 (四方の海にある国々はみな兄弟だと思っているこの世の中であるのに、どうして波風が立ち騒ぐのだろうか)

翌9月6日午前10時、御前会議が開かれた。席上原枢密院議長より「此案を見るに、外交より寧ろ戦争に重点がおかるる感あり。政府、統帥部の趣旨を明瞭に承りたし」との質問あり。政府を代表して海軍大臣が答弁したが、統帥部からは誰も発言しなかった。然るに、陛下は突如御発言あらせられ、「只今の原枢相の質問は洵に尤もと思う。之に対して統帥部が何等答えないのは甚だ遺憾である」とて御懐中より明治天皇の御製
 よもの海みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ
を記した紙片を御取出しになりて之を御読み上げになり、「朕は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好の御精神を紹述せんと努めて居るものである」と仰せられた。
※一部漢数字を数字に置き換えています
『海軍戦争検討会議記録』著者:新名丈夫、発行所:㈱KADOKAWA、初版:2022年10月10日

「帝国国策遂行要領」が決定

 果たして、御前会議において下記の3項から成る「帝国国策遂行要領」が決定した。
 1.対米英蘭戦争の準備を10月下旬までに完了させる
 2.一方で米英との外交交渉は継続する
 3.ただし、10月上旬頃に至っても交渉の進展が無い場合には開戦を決意する

アジア歴史資料センター(原本所蔵:防衛省防衛研究所)Ref.C12120238900

帝国は現下の急迫せる情勢、特に米、英、蘭等各国の執れる対日攻勢、「ソ」連の情勢及帝国国力の弾発性等に鑑み、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中南方に対する施策を左記に拠り遂行す。
一、帝国は自存自衛を全うする為、米(英蘭)戦争を辞せざる決意の下に概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整す。
ニ、帝国は右に並行して米英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む。対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最少限度の要求事項並に之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し。
三、前号外交交渉に依り10月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す。対南方以外の施策は既定国策に基き之を行い、特に米「ソ」の対日連合戦線を結成せしめざるに勉む。
※一部漢数字を数字に置き換えて句読点をふり、片仮名を平仮名に変え、一部旧字体新字体に変換しています。
『海軍戦争検討会議記録』著者:新名丈夫、発行所:㈱KADOKAWA、初版:2022年10月10日

 天皇が外交交渉を優先すべきと幾度も促し、明治天皇の御製をもって諭しても伝わらないということなのだ。ここにジレンマというか葛藤というかの構図が炙り出されている。一つは、天皇が命を下せないこと。そしてもう一つは、天皇の命は絶対と言いながら天皇の想いを結果的に受け流し、組織や自己の都合や思いを優先することになる軍部と政府、という構図だ。

「努める」と「勉める」

 蛇足になるが、同じ「つとめる」でも、外交の二項では、「外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む」とあり、開戦の決意の三項では、「米「ソ」の対日連合戦線を結成せしめざるに勉む」と敢えて文字を異にしている。
 今から思うと、米ソの対日戦線対策についてはあらゆる情報収集と研究が勉められるのに対し、米英との外交交渉は具体的な戦略があったというよりは、どちらかと気持ち的に努力しますといった努めるというニュアンスが滲み出てしまっているように感じるのは間違いだろうか。