【父が娘に伝える大日本帝国の物語】本稿は、昭和20年6月まで存在した極秘任務、パナマ運河攻撃作戦に纏わる物語です。
歴史は人の手を介して伝えられるものであるから、そこには取捨選択が有り、伝えられる側も人であるが故に感情が添えられる。置かれた立場により大義が何通りも存在するから、起こった事実とそれぞれの事情を多面的に捉えようといった意識がいつも肝要だ。我が国の歴史の物語に触れることが、自分の生まれた国に対する興味と愛着、自身のルーツに対する敬意、自分の頭で考える未来に繋がれば嬉しいと思う。
パナマ運河破壊計画
パナマ運河のガトゥーン閘門を航空機によって攻撃して爆砕し、太平洋と大西洋を結ぶ海運を遮断する、という壮大な計画が、昭和20年(1945年)の6月の攻撃目標の変更命令が出されるまで生きていて、第6艦隊 第1潜水隊司令官有泉龍之助大佐によって本作戦のための訓練が実施されていたという事実がある。
アメリカの工業地帯の多くは東海岸にあるので、船舶、物資を太平洋側に輸送するにはパナマ運河を通らなければならない。この作戦が成功すれば、商船だけでも数百万トンを沈めるに匹敵する効果が期待できる。米大西洋艦隊が出てくるにしても、遠く南米のチリ沖を廻るか、大西洋から喜望峰経由でインド洋を横断してこなくてはならない。そこに日本海軍の潜水艦部隊を配置すれば、米艦隊を一網打尽にすることができる。――そのために、巡航速度で地球を一周半できる長大な航続力(14ノット〔時速約26キロ〕で37,500浬〔約69,450キロ〕)をもつ超大型潜水艦と、それに搭載される高性能な攻撃機が開発されたのだ。
「晴嵐」は、潜水艦に搭載するため分解、折りたたみができ、着水用のフロートをつけなければ戦闘機並みの高速を誇り、800キロの大型爆弾か魚雷を積むことが可能な新鋭機だった。
潜航中の狭い艦内であらかじめエンジンオイルを暖め、暖機運転をするために液冷エンジンを採用し、地球上どこでも方位に誤差が出ないよう、水上艦艇でさえ全てには装備されていなかったジャイロコンパスを備えるなど、その時点での日本の航空技術の粋が結集されていた。
それら「潜水空母」と「晴嵐」は、完成すれば地球上どこでも攻撃できるだけの威力と可能性を秘めているはずだった。
※一部漢数字を数字に置き換えています
『太平洋戦争空白の史実』著者:神立尚紀、発行所:㈱潮書房光人新社、初版:2022年7月22日
大東亜戦争における戦線の無限拡大は周知の事実だが、太平洋の東の果て、パナマ運河までも作戦の対象となっていたことに改めて驚愕する。
本作戦は、昭和17年(1942年)6月に、海軍第5次軍備計画(⑤計画)の修正案である「改⑤計画」が決定されたことに端を発する。この決定には、”潜水空母”と言われる巨大潜水艦「伊号400型潜水艦」の新規建造及びこの潜水艦に積載する戦闘機「晴嵐」が含まれていたからだ。当時健在であった連合艦隊司令長官山本五十六大将肝入りとも言われている。
また、いまや日本の防衛ラインは自壊を始め、南方戦線が崩壊するのはもはや時間の問題である情勢にあった、昭和18年(1943年)8月に、軍令部潜水艦主務参謀の藤森康男中佐が視察でラバウルに訪れた際にも、パナマ運河攻撃はまだまだ現実味を帯びていた。
伊400型潜水艦でパナマ運河を破壊するという構想を藤森が抱くようになるのは、ラバウルを訪れたときである。この攻撃によって太平洋に展開している米軍の補給線は枯渇するばかりか、日本は必要な時間を稼ぐことができる。その間に戦力を再結集して補給を整えれば、前線を強化することさえ可能だ。(中略)
「米軍の輸送線、補給線を絶つため、パナマ運河を攻撃すべきである。兵力としては『潜水空母』を使用するのが最適である」と藤森は語っていた。
『伊四〇〇型潜水艦 最後の軌跡(上巻)』著者:ジョン・J・ゲヘーガン(john J.Geoghegan)、訳者:秋山勝、発行所:㈱草思社、初版:2015年7月30日
一方で、山本五十六大将の戦死後は、なけなしの物資の配分から、軍令部内の反対にも合い、山本の腹心で先の連合艦隊先任参謀、黒島亀人軍令部第二部長とその部下の藤森康男中佐(軍令部潜水艦主務参謀)、建造計画を主導する片山有樹少将等による執拗な政治力で、縮小はされつつも終戦まで配備計画は続行されることになる。
山本五十六によって真珠湾に続く追撃作戦として構想され、建造と配備は終戦にいたるまで続きました。実現にはきわめて膨大な資材が必要とされ、建造は三か所の海軍工廠でべつべつに進められています。鋼材の供給は、海軍全体の建艦計画にも影響を与え、軍令部はその点について絶えず不平を申し立てていました。
『伊四〇〇型潜水艦 最後の軌跡(上巻)』著者:ジョン・J・ゲヘーガン(john J.Geoghegan)、訳者:秋山勝、発行所:㈱草思社、初版:2015年7月30日
対ドイツでヨーロッパ戦線でも事を構えるアメリカの海軍力を分断する意図は分かるものの、疲弊する戦局と兵站、物資等あらゆる方面からも作戦の優先順位には疑念が残り、何よりも着手するのがあまりにも遅かったことは否めない。適材適所が図られた作戦というよりは、ほぼ壊滅状態と化した第6艦隊の、最後の一矢を報いるための大日本帝国軍上層部に随所に見られる根性論といったきらいが見え隠れしているように感じてしまう。
ただ、このような困難極まる情勢の中においてでさえ、当時の世界最大の潜水艦(潜水空母)やそこに搭載する高性能攻撃機を作り上げて実現まで迫る現場力には感服するのである。
時の軍令部次長大西瀧治郎中将の命令で攻撃目標の変更がなされ、米海軍部隊が集結するウルシー泊地に在泊する敵機動部隊を攻撃することとなり、昭和20年(1945年)6月25日には、連合艦隊司令長官小沢治三郎中将から第6艦隊にウルシー攻撃作戦命令が下る。ここに至り「パナマ運河攻撃作戦」は幻と消えた。
世界最大の潜水艦「伊号400型潜水艦」
パナマ運河攻撃作戦に必須のパーツの一つ「伊号400型潜水艦」は、米海軍のバラオ級潜水艦(全長約95m)より大きく、フレッチャー級駆逐艦(全長約115m)すらも凌駕する当時の世界最大の潜水艦で、川崎重工業㈱等によって秘密裏に建造されていた。
いずれも全長122メートル、全幅12メートル、基準排水量3,530トン、燃料満載時の排水量が5,500トンを超えるという巡洋艦並みの大きさの艦で、7,750馬力のディーゼル機関、2,400馬力の電動機を装備している。
特筆すべきは航空兵装で、水密、耐圧構造の格納筒に、翼を折り畳んだ新鋭攻撃機「晴嵐」3機を搭載し、前甲板に装備された大型のカタパルトで連続射出ができるようになっていた。そのため、「潜水空母」ともよばれる。
※一部漢数字を数字に置き換えています
『太平洋戦争空白の史実』著者:神立尚紀、発行所:㈱潮書房光人新社、初版:2022年7月22日
やや艦型が小さく、攻撃機2機が搭載可能な伊13潜、伊14潜も同時期に建造されている。伊号第400型潜水艦は、当初18隻が建造予定だったのが、資材調達、戦況の推移等の影響から何度も計画が見直され、結局は3隻の建造に留まった。
- 伊号第400潜水艦:昭和19年12月30日竣工(艦長:日下敏夫中佐)
- 伊号第401潜水艦:昭和20年1月8日竣工(艦長:南部伸清少佐)
- 伊号第402潜水艦:昭和20年7月24日竣工 ※最後の作戦にも間に合わず
- 伊号第13潜水艦:昭和19年12月16日竣工(艦長:大橋勝夫中佐)
- 伊号第14潜水艦:昭和20年3月前半に就役(艦長:清水鶴蔵中佐)
潜水艦搭載水上攻撃機「晴嵐」の開発
そして、パナマ運河攻撃作戦に必須のパーツのもう一つが、潜水艦搭載の攻撃機「晴嵐」である。愛知航空機(現在の愛知機械工業㈱)が製造した「晴嵐」の一機あたりの製造コストは「零戦」の50倍を上回っていたとされている。
機体の大きさ、重量、航続力、速力、搭載能力などの諸元を満たしつつ、さらに機体を格納筒内に収まる大きさまでどう折りたためばいいのか――複雑に相反するこうした要目を満たした設計上の解決が第一歩となっていた。なんといっても格納筒そのものは艦橋直前で直径4.2m、内部になるとわずか3.5mしかなく、プロペラの多くが羽根の長さの点でこれをうわまわっていたため、設計作業はますます困難をきわめた。問題は決してひと筋縄で解決できるようなものではなかったのである。
※一部漢数字を数字に置き換えています
『伊四〇〇型潜水艦 最後の軌跡(上巻)』著者:ジョン・J・ゲヘーガン(john J.Geoghegan)、訳者:秋山勝、発行所:㈱草思社、初版:2015年7月30日
潜水艦に搭載し射出することから条件が極限まで制限されるため、その設計、製造は困難を極めた。また、操縦者の技能も問われることとなる。
愛知M6A1という攻撃機は、相反するふたつの要素を可能にした設計案に基づいていた。つまり急降下爆撃ができ、しかも低空飛行による雷撃も可能なのである。急降下爆撃においては「ダイブブレーキ」が必要で、これによって航空機は降下中の速度を制御し、機体が分解する速度に陥るのを防ぐ。一方、雷撃の際、航空機には低空で直進し、十分な速度を維持できる能力が必要とされる。いずれの攻撃においてもそれぞれ特有の形状をしたフラップが必要であり、しかもその操作をマスターするには膨大な訓練を欠かせなかった。言葉を換えるなら、愛知航空機が開発した特別攻撃機は、未熟な操縦員が扱えるような航空機ではなかったということだ。
『伊四〇〇型潜水艦 最後の軌跡(上巻)』著者:ジョン・J・ゲヘーガン(john J.Geoghegan)、訳者:秋山勝、発行所:㈱草思社、初版:2015年7月30日
「晴嵐」のテストパイロットには、水上機の操縦に関して帝国海軍きっての技量の持ち主だと目されていた、船田正少佐が指名された。
「晴」と「嵐」の漢字二文字で、意味は「晴天の嵐」と訳せるだろう。18世紀の浮世絵師歌川広重の絵をヒントにしている。雨が降りやんだ粟津の村を描いた「粟津晴嵐図」という一枚であり、近くの山すそから霞が立ちのぼっている風景である。船田は、この特別攻撃機が「忍者のように霞の中から突如出現」して、敵への奇襲を成功させることを願っていた。雅趣だけではなく、晴嵐という機名には、この機に課された目的がまぎれもなく反映されていた。
※一部漢数字を数字に置き換えています
『伊四〇〇型潜水艦 最後の軌跡(上巻)』著者:ジョン・J・ゲヘーガン(john J.Geoghegan)、訳者:秋山勝、発行所:㈱草思社、初版:2015年7月30日
粋な命名の名付親である船田少佐の戦後の回想録では、「晴嵐」こそが最高傑作と評している。
「数多くの航空機に乗ってきたが(略)晴嵐の反応と操縦性は忘れることはできない。自分にとってこの機は最高傑作だった」と記している。
『伊四〇〇型潜水艦 最後の軌跡(上巻)』著者:ジョン・J・ゲヘーガン(john J.Geoghegan)、訳者:秋山勝、発行所:㈱草思社、初版:2015年7月30日
水上機仕様のフロートのかわりに、手動式の引き込み脚と操縦員育成のための二重操縦装置を装備した練習機として「南山」も製造された。飛行性能は「晴嵐」をコピーしていたが、フロートが無い分、速度が勝る。バランスを取るために垂直尾翼は短くなり、それに応じて操縦方法も異なっていたという。
「晴嵐」は、最後に生産された通算製造番号28番の機体のみが復元され、アメリカはスミソニアン国立航空宇宙博物館に展示現存している。
最後に、「伊号400型潜水艦」と「晴嵐」の組み合わせの着眼点の凄さについて、伊号第401潜水艦飛行長の淺村敦大尉の証言を引用する。
「なぜ『晴嵐』がアメリカで着目されたか。それは、世界のどこでも攻撃できるという、いまの原子力潜水艦の発想を、すでに日本海軍が具体化していたこと。そして連合軍は、その存在に終戦まで気づいていなかった。しかも、搭載されている飛行機の性能たるや、従来の潜水艦に搭載されていた軽飛行機のようなチャチなものではなく、攻撃機のなかでも名機に入るような素晴らしいものであった。
潜水艦搭載の攻撃機というのは、『晴嵐』のほかには世界のどこにも存在しない。」
『太平洋戦争空白の史実』著者:神立尚紀、発行所:㈱潮書房光人新社、初版:2022年7月22日