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「信長の野望 大志」三村家親プレイ記録 第弐話ー美作高田城攻防戦ー

 本記事は、信長の野望 大志」シナリオ「厳島の戦い」、三村家親プレイ記録の第弐話ー美作高田城攻防戦ーです。時は1556(弘治2)~1557(弘治3)年。

[前話]

次男元親が元服

 明けて1556(弘治2)年1月、次男元親が元服。高田城を支配下に置いたこともあり、国力は(スタート時の34位から)25位にUPしている。

元親の能力は高いとは言えないが成長に期待しよう。

備中の二つの城に加え美作の高田城の3拠点に。

兵数ではまだまだ尼子、毛利にかなわない状況だ。

高田城攻防の予兆

 占領間もない高田城周辺の整備も整わないうちに、尼子勢が高田城を取り戻すため兵を向けてくる。

 援軍を要請する物資も乏しく今戦えば負ける公算が高いこと、尼子との戦いも6ヵ月を経過してきていること、向こうは毛利ともやりあっているので講和を受けてくれる可能性もあることから、講和が最善の手と尼子へ使者を派遣する。

尼子側としても一旦講和を望んでいたと思われる。

 ひとまず講和が成立してくれたことで、前線の高田城周辺の整備に取りかかるも、長雨により領内で洪水が発生し、兵力にもダメージを蒙り、回復を図ることとなる。尼子領は被害無しだったことを思うと、結果的に講和のタイミングはバッチリだったことになる。

全国的な長雨により各地で洪水が発生、三村領も例外に漏れず被災する。

粟住山での総力戦

 9月となり講和期間が過ぎるとすぐに尼子から宣戦布告を受け、尼子軍が再び高田城へ兵を進めてきた。今回は新宮党の党首尼子国久も加わった本気の布陣のようだ。例によって三好と浦上がこちらに加勢し、山名が敵側に加勢する構図で、物資の援助を三好からもらう。

三好より兵糧2,485を始めとした物資を頂戴する。

 敵の侵攻ルート上の自領内で一番有利な地勢である粟住山で相手を向かえ討つべく、家親を総大将に清水兄弟を従えて領内3つの全ての城から3部隊を繰り出す。今回は援軍無しの負けられない総力戦だ。

家親自らの出陣で1万を超える軍勢を配備。

清水兄の部隊に長男元祐、清水弟の部隊に次男元親を副将として配置する。

 戦場の地勢が物を言い、兵数及び部隊数でこちらを上回る尼子軍の撃退に成功!

お互いに消耗戦となった粟住山の戦い。

 勝つには勝ったがこちらの消耗も著しく(死者負傷者を合わせた被害率60.1%)、敵の城を攻略できるだけの兵力にないため一旦兵を引き上げることとする。

 11月には、やはり消耗激しい尼子に対し毛利が宣戦布告する。毛利の機嫌を取る狙いもあって毛利側で参戦表明する。

 また、三好、浦上とは同盟の延長を要請し受諾してもらう。

江美の戦い

 年が明けて(1557(弘治3)年)からは、商圏の拡大を目的に長宗我部に対して親善を実施し通商協定を締結する。毛利に対しても親善を実施するが依然として当方への敵視政策が変わることはない様子だ。

 尼子との戦いも9ヵ月が過ぎた6月、三度尼子軍が高田城へ兵を進めてくる。尼子晴久の高田城奪回に対する執拗なまでの執着だ。

今回の尼子勢には山名からの援軍も加わっている。

 悪いことにことこのタイミングで毛利が尼子との講和に応じてしまう。尼子の全精力が我々につぎ込まれる(加えて羽衣石城からの山名の援軍まで合流する)状況となってしまった。たまらず、浦上へ援軍を要請し金銭6,600の譲渡を条件に承諾してもらう。

浦上の援軍無しでは勝てない以上止むを得ない出費だ。

 先の粟住山の戦いでは自領内で戦ったため戦後に領内の各施設に被害が出て回復に時間を要したことから、今回は敵の侵攻ルート上の敵領内の江美にて待ち受けることとする。もちろん当方の布陣は家親を総大将として両脇を清水兄弟で固め、浦上からの援軍である、伊賀久隆隊と花房正幸隊と高田城で合流する。

 援軍のおかげで兵数ではこちらが上回っているが、勝利をより確実なものとするため、高田城にて全部隊が合流後、戦場である江美に向かう際に、北方の八橋城に向かうと見せかけるファイクを入れ、八橋城の戦力を侵攻してくる尼子軍に合流させずに八橋城へ釘付けとさせることに成功する。

尼子軍に壊滅的なダメージを与える(被害率:81.3%)。

11ヵ月に及んだ対尼子戦

 江美の戦いの後、民忠も極端に下がってきており(戦が長期化すると民忠が下がっていく)、この11ヵ月の長期に及んでいる戦を一旦終わらせたいと思っていた矢先に、尼子側より講和の申出があり、承諾する。

予期せぬ完敗で尼子もたまらず講和の申出か。

 その頃関東方面では、史上最強との呼び声高い三国同盟(北条、武田、今川)によって、国内最大勢力となっていた北条に対し、長尾を始めとする6勢力が北条包囲網を結成し、また、中部方面では、織田が今川に滅ぼされてしまった。あの織田信長を持ってしても3年3ヶ月しか生きながらえない苛烈な戦国の世に我々も身を置いている。