本記事は、「信長の野望 大志」シナリオ「厳島の戦い」、三村家親プレイ記録の第七話ー東の山名と西の毛利ーです。時は1566(永禄9)~1567(永禄10)年。
[前話]
毛利領、吉田郡山城攻略
明けて1566(永禄9)年1月、四男、三村元威が元服する。
先の毛利戦での勝利によって毛利との国力は逆転し、第6位まで上昇している。
西方で毛利家が大内家を滅ぼしたタイミングで、吉田郡山城に籠城する毛利元就に対し宇喜多直家を使者として派遣し、吉田郡山城開城を条件に毛利家と講和を締結する。
三国同盟に亀裂
5月、何があったのかは知らないが、突如として今川が武田を敵視しており、最強の呼び声高き三国同盟に亀裂(今川と武田の同盟は破棄されているが、それぞれ北条との同盟関係は続いている模様)が生じている。
東方のいざこざは遠目に見つつ、我々は着実にやるべきことをやる。
西の毛利はだいぶ弱体化させたので、東の山名に備え、国境を接する因幡前線に若桜城を築城する。
11月には、宇喜多直家を使者に立て、ウィリアム(毛利家)を家宝「松本茄子」の譲渡を条件に内応に成功する。
12月には、備後の各商圏が発展し大商圏が形成される。
山名へ宣戦布告(第二次山名戦争勃発)
年が明けて、1567(永禄10)年2月、今川家を始めとする9勢力が武田家包囲網を結成し、いよいよ今川と武田は全面戦争へ突入。
武田家包囲網に今川方で参戦した山名は後方の憂い(我々)の予防策に、奏者に黒田重隆(当方の黒田官兵衛の祖父)を据えて親善の申出が有り、仲良くする気はさらさらないが、官兵衛の祖父であることを立てて、一旦受諾する。
が、対武田戦に傾注する余りに不用意な隙を見せている山名に対し、即座に宣戦布告する。
二方面侵攻作戦
此度は、因幡から但馬方面へのルート(総大将は河副久盛)と、備前から播磨方面へのルート(三村家親本隊)の二方面作戦を採用。主力の宇喜多直家、黒田官兵衛、尼子晴久等は毛利への備えとして留守居役とする。
緒戦は三村本隊が播磨国室山で山名軍と相見え、敵将櫛橋伊定率いる13,000弱の軍勢を蹴散らす。
室山の戦いで捕縛した島村盛実(浦上家吸収間もない時機に乗じた山名家の工作により、山名家へ投降)を斬首に処し、勢いそのまま室津城を攻略する。
三村本隊は続いて、主の山名祐豊が籠る姫路城を強攻戦で陥落させる。
術中に嵌る山名軍
河副軍が包囲している竹田城へ、荒木氏綱率いる敵方の第二陣が救援に向かうところを、三村本隊で笹倉にて迎撃する。
他方、但馬方面へのルートの河副久盛軍は、三村本隊が敵方主力部隊と遣り合っている間に竹田城を包囲しており、長船貞親が竹田城主の一色義道の説得に成功し、開城を条件とした講和を締結し、休戦となる。
第二次山名戦争は、3拠点の奪取の短期決戦で幕を下ろす。山名と毛利の我々三村に対する敵対感情はいよいよピークに達している。