246blog

2nd Life from46

オミクロン株の変異株「JN.1」に席捲された、我が家のコロナ禍

 2020年(令和2年)からの「新型コロナウイルス感染症 (COVID-19)」(コロナ禍)の中で、うがい手洗い、消毒、人込みの中ではマスク着用といったいわゆる基本動作の定着によって、コロナに限らず、インフルエンザや風邪にも罹らなくなって、何とか罹患せずに(少なくとも症状に出ずに)暮してきた筆者だったが、この2月にとうとうコロナ陽性となってしまい、コロナ禍以前の数年ぶりの高熱にうなされることとなった。

 筆者の陽性判定の翌日には長女がインフルエンザに罹患し、翌週には奥さんがコロナ陽性となり、そして今週末で次女のコロナ隔離期間がやっと終わろうとしている。閏年で例年よりも長いはずの2月が、あっと言う間に過ぎ去っていってしまった。

目下の新型コロナの変異株

 現在流行期(第10波とも言われている)にあるのは、新型コロナウイルスの「JN.1」(ジェイエヌ・ワン)と呼ばれる新たな変異ウイルス(一世を風靡したオミクロン株の変異株)で、筆者が罹患したのもこの流行にキャッチアップした変異株。これまでの変異株と比較して、症状が長引く傾向があり、インフルエンザ等に比べても、陽性反応が出てくるまでの時間がやや伸びており(初期症状の状態では陰性になる場合も)、免疫逃避で2度、3度と繰り返し感染するという特徴があるそうです。また、オキシメーターで測ると、本来”95”あるべき所がそれよりも下がっているということが起きがちだと言います(筆者は2回程度測定したが95以上だったと思う)。

コロナ罹患の状況

「JN.1」発症

 新宿東口で高校野球部同窓との飲み会後の3日目の夕飯時から発熱とそれに伴う悪寒が始まる。あちゃ~、これは38℃超えてきてるわ~、といった久しぶりの感覚も束の間、寒くて震えが止まらない状態である「悪寒戦慄」へと悪化。とにかく温まりたいの一心で、熱いお風呂に入って、すぐに布団へ入るも、ひどい悪寒で寝苦しい夜を奮闘することとなる。

病院での検査と処方箋

 翌朝、会社に休みの連絡を入れて、病院(普段お世話になる内科が休診日だったため、奥さんに言われるまま耳鼻咽喉科)に電話するも、まだ発症から時間が経ってないとかで、夕方に通院することとなる。コロナとインフルエンザの検査(病院内でなく外で実施される、寒い)をして、コロナ陽性、インフルエンザ陰性。コロナの薬は9,000円以上かかる上、特効薬というわけでもなく、解熱剤や咳止め等を活用して自然治癒を図るのが一般的な対処とのことで、与えられた薬は2点。

 発熱以外では頭痛や喉の痛みがあったと思うが、この時点では高熱(と悪寒)がメイントピック。自分の部屋での隔離生活が開始される。翌日には、長女がインフルエンザ陽性で隣の部屋で同様に隔離されることになる。

回復への経過

 発症4日目くらいから発作的な咳が止まらなくなって、処方された甘いシロップに期待を込める(結果的に、このシロップを飲み切って、そのおかげなのか咳は2週間程度で治まっていってくれた)。

 週末を経て熱は治まったものの、所謂隔離期間の5日を過ぎても、ダルさが覆っていて布団に寝てる方が楽な状況が続く。

久しぶりに空を見上げる(自宅上空)。

 2週間以上経って、(それまでは在宅勤務)出社後に上司と飲んだことで回復した感を持てた気がするが、どことなくダルい感じが残ったまま現在に至っている(絶好調の体調をいうものを忘れてしまった感有り・・・)。

全ての根幹は”内にある熱”情熱

 この病が恐ろしいなと思ったのは、何もする気が起きなくなるという無気力化にある。食べたいものもない、何かしようという気力が湧いてこない、人に触れ合うことも叶わない、寝ること意外に救いが無い。

 無気力化した自分意外は何も変わらないで動いて行く中、日常のルーティン(図書館から貸出期限の督促は来るし、仕分けしていない郵便物が溜まっていくし、紙ごみのまとめも出来ず等々)は崩れ、人と合う約束は貯まっていき、それでも人から物は送られて来るし、上司も部下も労りの言葉をかけてくれる一方、粛々とやるべきことを手掛けてくれている。自分はダルいから何もしたくないし、考えたり判断したりすることが普段より疲れる。食べたくも無いご飯を何にするか考えるのも面倒だ(これを日常でやっている奥さん・・・)。

 果たして、自分を取り巻いている現状(周囲)は思っているよりも変わらない。起きていることに対してどう感じ(感じようとし)どうアクションするか(しようとするか)、が全てであって、起きた結果は全て自分が感じてアクションした結果なんだろうなあ。自分の中に全てはある。

 コロナを経て学んだことは、情熱が全ての始まりで、生活を始めとした人生のパーツを、一つ一つ丁寧に想いを込めて仕込んでいきたいという、なんとも生活も職人気質でありたいというものであった。