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2nd Life from46

5☆『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』の読書感想

 今夜の読書感想は、『死は存在しない 最先端量子科学が示す新たな仮説』(著者:田坂広志、発行所:㈱光文社、初版:2022年10月30日)です。

 センセーショナルな題名に惹かれて手に取った一冊。「死」について考えるとどうしても虚無感や寂寥感に覆われて、楽しくないのがいつもだが、本書を読んだ後では、「意識」の持続性といった観点から(断絶して何もかも無くなると思っていた場合には)少し救われる思いがする。

※記事中の「筆者」は当ブログの管理者のことです、「著者」と紛らわしいですが現在のところブログ内全てを筆者で通しているため悪しからずご了承ください。

「宗教」と「科学」の調和と融合

 現代の宗教の教える「死後の世界」は、「天国」や「極楽」など、抽象的なイメージを語るだけで、心から納得できない。
 現代の科学は「この世に神秘的なものは存在しない」「死とは、無に帰すること」と語るだけで、現実に、多くの人々が体験する「神秘的な現象」を解明しようとはしない。

 凡そ現代に生きるものが感じているシンプルな問いを、宗教の世界や哲学として人類が感じてきた直観等、遥か昔から語られてきたことに(仏教、キリスト教、古代インド哲学宮沢賢治の詩等に触れながら)実は真意があるのかもしれないことを示唆しつつ、今や、我々の意識に最大の影響を与えるようになった「科学」と、今も、世界中の大半の人々が信じる様々な「宗教」の二つが、対立することなく、調和し、融合していく「未来」を切り開いていくべきだとする、「科学」と「宗教」の間にある深い谷間に「新たな橋」を架けることが、著者の大元の発想にある。

現代の科学の限界と頑迷さ

 未だ解明されていない「意識の謎」をはじめ、科学で説明出来ない不思議の数々を例示して、現代の科学が、決して「万能」でも「無謬」でもなく、解き明かせない「謎」を多く抱えた「限界」のあるものであることを前提として、「説明出来ないものは、存在しない」とする頑迷さには与しない立場にある著者が、科学界のど真ん中の権威であることで圧倒的な説得力が伴う。

 例示されてる「謎」で最も驚いたのは、大谷翔平を思い浮かべさせられる「神経の伝達速度と反射運動の謎」。

 これは、例えば、野球において、投手が投げた時速160kmの球を、打者の視神経が捉え、脳神経に伝え、筋肉を動かすというプロセスでは、神経での情報伝達の速度を考えるならば、理論的には、とても間に合わないという問題である。しかし、現実には、打者は、この球を打ち返すことができるが、この反射運動の謎を、現代の科学は説明できないのである。
※一部漢数字を数字に置き換えています

 また、「視線感応」「以心伝心」「予感」「予知」「占い的中」「既視感」「シンクロニシティ共時性)」といった誰もが日常的に体験することも、現代の科学は説明出来ていない。

 著者は、不思議な体験が豊富というよりは意識的に記憶されている。こういった今に集中した生き方から参考にしなければならないのだが、筆者は注意深くそのことを考えたりせずに過ごしているため、何か事例を思い出そうとしても出て来ない。確かにあったかもしれない、といった感覚は分かる気がする、に留まる。

 ただ、今を集中して生きているであろう娘(小学3年生)に聞いたところ、楽しみに思っていたこと(主に友達の誰々と〇〇して遊ぶこと)が、現実でその通りになることはいっぱいあるよ!と言っていた。

「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」

「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」とは、一言で述べるならば、この宇宙に普遍的に存在する「量子真空」の中に「ゼロ・ポイント・フィールド」と呼ばれる場があり、この場に、この宇宙のすべての出来事のすべての情報が「記録」されているという仮説である。

 「量子真空」とは、宇宙の起源とされる何も無かった場所で、インフレーション宇宙論、ビッグバン宇宙論を経て、138億年かけて現在のような壮大な広がりを持つ宇宙となった、起点のこと。

  • 記録される情報は「量子的波動」であるため、減衰が起こらない。
  • 「ゼロ・ポイント・フィールド」が存在するかぎり、永遠に存在し続ける。
  • 「ゼロ・ポイント・フィールド」内では、情報伝達が瞬時に起こる。

 といったような特徴があるとされる。
 誰もが日常的に体験することだが科学が説明出来ていないことも、我々の意識が「ゼロ・ポイント・フィールド」に繋がることによって起こる現象に他ならないことが、科学的かつ合理的に説明されていく。

多重層的「意識」の世界

 「ゼロ・ポイント・フィールド仮説」で肝となる「意識」であるが、5階層にも渡って重層的に存在し、日常の生の中では、2番目の層の「静寂意識」に辿り着くにもマインドフルネスのような工夫と努力が伴うから、なかなか一朝一夕に体感として理解するのは難しいのだが、古からある思想とリンクさせながら(突拍子も無い論理展開ではないことを示しながら)解説が進められる。

  1. 表面意識:「自我」
    我々が日常生活の中で最も活性化している意識の世界で、感情に左右される。
  2. 静寂意識:「賢我」
    「祈り」や「瞑想」などの心の技法を積極的に実践することで現れる、賢明なもう一人の自分。天才と呼ばれる人々がアイディアが降りてくると語るゾーン。
  3. 無意識:「無我」
    我々自身が気づいていない意識の世界で「引き寄せの法則」が支配する世界。
  4. 超個的無意識:「超我」
    我々の「無意識」が「ゼロ・ポイント・フィールド」を通じて互いに繋がった世界。ユング心理学では「集合的無意識」と呼ばれる。
  5. 超時空的無意識:「真我」
    我々の「無意識」が「ゼロ・ポイント・フィールド」と深く結びついた意識の世界で、未来に関する情報をも感得。

「死は存在しない」の真意

 肉体が死滅した後、我々の人生で抱いた意識の全ての情報が永遠に残る、だけじゃなく、「ゼロ・ポイント・フィールド」内に記録された全ての情報を学びながら変化し続ける(生き続ける)という観点から「死は存在しない」との主張となる。

肉体の死後、我々の意識は、その中心をゼロ・ポイント・フィールド内の「深層自己」に移し、生き続けていく

 「ゼロ・ポイント・フィールド」内に移った我々の自己は、自我意識が薄れてなくなっていき、合わせて苦しみもなくなって、現実世界の私ではない「真の私」になっていき、

我々の意識は、「私」を忘れ、「すべて」を知るのである。

 宇宙誕生からの全ての生命の意識を宇宙の意識としていることから、我々の意識の本来の「故郷」であった「宇宙意識」へと戻っていく、それは大いなる帰還と呼ぶべきものであると結論付けている。

「宇宙の歴史とは、量子真空が、『自分とは何か』を、問い続ける過程である」

我々の「内」にある意識への眼差しが科学を基に熱く語られている。

 本著は、肉体や自己の意識を超越した新たな世界観(宇宙自体が意識を持つ)へのあくまでも科学的なアプローチによる試み(仮説)であり、「死は存在しない」の論理展開は、下記のような流れを骨子とする。

 もし、あなたが「私とは、この肉体である」と信じるかぎり、「死」は明確に存在し、そして、それは、必ずやってくる。
 もし、あなたが「私とは、この自我意識である」と信じるかぎり、あなたの意識がゼロ・ポイント・フィールドに移った後、いずれ、その「自我意識」は、消えていく。そして、「超自我意識」へと変容していく。
 それゆえ、その意味において、「自我意識」にとって「死」は存在し、それも、必ずやってくる。
 しかし、もし、あなたが、「私とは、この壮大で深遠な宇宙の背後にある、この『宇宙意識』そのものに他ならない」ことに気がついたならば、「死」は存在しない。「死」というものは、存在しない。
 なぜなら、この現実世界を生き、「肉体」に拘束され、「自我意識」に拘束された「個的意識としての私」は、この「宇宙意識」が、138億年の悠久の旅路の中で見ている、「一瞬の夢」に他ならないからである。
 そして、その「一瞬の夢」から覚めたとき、「私」は、自分自身が「宇宙意識」に他ならないことを、知る。

 そして、著者は言う。
 生を終え、両親との再会を果たすときには、

「素晴らしい旅を、有り難うございました。深い学びと成長の旅から、いま、戻りました」

著者への問い

 読了後に筆者の混乱した頭の中では、論旨はそうだとして概ね下記の3点が残った気がする。

  1.  人の意識というよりは、一個人の脳を凌駕した、知識や技術といったものをデータ保存(再現性の叡知の蓄積)しているもの、これまでの文明を築き上げてきたものについても、全て記憶されているということであるならば、核戦争等でこの世の終わりが訪れても(人類が滅亡したとしても)、これまでの文明や発明がいずれは再建、再発見される、ということに本当になるのだろうか。
  2.  人の一生に比べてあまりにも長過ぎる宇宙時間に意識があることを想う時、現世においても「熱中が時間を止める」という感覚があるが、莫大な全ての情報を瞬時に学習していく「ゼロ・ポイント・フィールド」の概念においては、もしくかすると「時間」という概念が無いということなのだろうか。
  3.  現代科学においては、宇宙にも終わりがあるという風に聞いているが、その後「ゼロ・ポイント・フィールド」はどうなってしまうのであろうか。宇宙の終わりが全ての「死」になるのであろうか(死が存在してしまう?)。

 何をもって「死」とし、「意識」とし「私」とするのか、という壮大かつ深遠な(誰一人解を知らない)テーマであるが故に、事実と意味付けとが混じりあってくる感じもあり、後半にいけばいくほど、「もし、そうであるならば~」という仮定を前提とした仮定の連続になるため、感覚的にも論理的にも分かったような分からないような風になってくるのだが、難しい科学の論理を有名な映画や小説の概念や世界観を例に一般庶民の目線で分かるように、科学的アプローチで宗教や人類が感覚的に捉えてきたもの、と歩みよろうとしていることから、宗教への寄り添いと共に庶民感覚への寄り添いを感じられる。科学のプロ中のプロがこうした一連のプロセスを語ることに価値があると思う。

 「ゼロ・ポイント・フィールド」との繋がりを意識して過ごしていくと、

  • 他者や先祖、世界や地球といった、より大きなものとの心の繋がりを感じながら生きていけるかも?
  • 人生に更なる味わいと幅をもたらせてくれる発想が降りてくるかも?
  • 意識のあり方は変容しつつも虚無ではなく持続的なのかも?

 と、筆者にとって真っ暗闇だった「死」の概念に少しの「光」が差し込んで来る感を得られたのは、財産になる。