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【父が娘に伝える大日本帝国の物語】<S006>昭和17年9月ー世界で唯一の米本土爆撃ー

 【父が娘に伝える大日本帝国の物語】本稿は、昭和17年(1942年)9月ー世界で唯一の米本土爆撃ーに纏わる物語です。

 歴史は人の手を介して伝えられるものであるから、そこには取捨選択が有り、伝えられる側も人であるが故に感情が添えられる。置かれた立場により大義が何通りも存在するから、起こった事実とそれぞれの事情を多面的に捉えようといった意識がいつも肝要だ。我が国の歴史の物語に触れることが、自分の生まれた国に対する興味と愛着、自身のルーツに対する敬意、自分の頭で考える未来に繋がれば嬉しいと思う。

月明の出撃

 昭和17年9月9日の早朝、ガダルカナル島で死闘が繰り広げられていた頃、北アメリカ大陸のケープ・ブランコ沖合では、伊25潜水艦飛行長の藤田信雄飛曹長が、司令塔の潜望鏡から外の様子を伺い、艦長の田上明次少佐に決行の決断を促す。

 海上の様子と上空をじっくりと確かめてから、藤田は田上に向き直った。「問題はありません。これなら今日、決行できるはずです」「よかろう。あと数分で貴様は歴史に名前を残すことになる。アメリカにはじめて爆撃した日本人になるのだ」
『わが米本土爆撃』著者:藤田信雄、発行所:㈱毎日ワンズ、初版:2021年6月6日

 午前5時30分、76kg焼夷弾(点火すると3,000℃の高温を発して燃焼する酸化鉄とアルミニウム粉の混合物テルミットが520個が入っている)2個を抱えた零式小型水偵が、伊号25潜水艦のカタパルトから射出される。

「飛行員、搭乗せよ!」と号令を発した。
 たちまち私が操縦席に、奥田が後部席に、いつもの早業で滑り込んだ。奥田の目は血走っている。艦長が艦橋から怒鳴った。
「藤田ッ、爆弾地点はあらかじめ指示したようにやれッ」
 血気にはやり市街地に爆弾を落とさぬよう念を押したのである。
 これに対して私は「了解」といわんばかりに振り向きざまにサッと敬礼した。ふと後部席を見ると、奥田は目を閉じて何かを祈っているようだった。
「おい奥田、行くぞ、スイッチオンだ・・・・・・」
『わが米本土爆撃』著者:藤田信雄、発行所:㈱毎日ワンズ、初版:2021年6月6日

オレゴン州に単機で侵入し空爆した際のルートイメージ図(Google Mapsを加工)

 同乗する奥田省二兵曹への「オクダ、イクゾ、スイッチ・オンダ」は、晩年85歳になった藤田信雄元中尉の死の間際でのうわ言でも漏らされていたという。

 そこから機は徐々に降下し始め、高度900mで水平飛行に移った。
「奥田ッ、爆弾投下用意!」
「ヨーソロー」
「撃てーッ!」
日本から4,500カイリ、はるばる潜水艦で運ばれた爆弾第一号が、まっしぐらにエミリー山のふところに吸い込まれていった。
「着弾を確認せよ」そういって奥田が視認しやすいように機をゆっくり旋回させた。
「爆発ッ、燃えています、燃えています!」
 まさに人類史上初の米本土爆撃の瞬間である。すぐに機の高さまで黒煙が立ち上がってきた。
※一部漢数字を数字に置き換えています
『わが米本土爆撃』著者:藤田信雄、発行所:㈱毎日ワンズ、初版:2021年6月6日

 戦時下、北はアラスカから南はオーストラリアのタスマニア島まで計6,000時間も飛行し、世界で唯一、米本土を爆撃した男の一撃であった。潜水艦からの出撃は、後の「伊400潜」と「晴嵐」開発と合わせたパナマ運河攻撃作戦の先駆けとも言えるかもしれない。

軍令部出頭

 時を遡り昭和17年7月27日、命令書に基づき、藤田飛曹長霞が関の官庁街にある軍令部の井浦祥二郎中佐のもとに出頭した。

三階に中佐の部屋を認めた藤田はなかに入る。部屋の天井が高い。藤田は威儀を正すと声をあげた。「伊号25潜水艦の飛行長まいりました」
「おうご苦労、こちらにきてくれ」と井浦は答礼してそう命じた。
 そのときである。執務室の別の扉が開いて誰かが入ってきた。士官服をまとった相手の顔を目にしたとき、それが誰なのか藤田はひと目で了解した。その顔は新聞の写真でなんども目にしていた。天皇の弟、高松宮宣仁親王その人にほかならなかった。
※一部漢数字を数字に置き換えています
伊四〇〇型潜水艦 最後の軌跡(上巻)』著者:ジョン・J・ゲヘーガン(john J.Geoghegan)、訳者:秋山勝、発行所:㈱草思社、初版:2015年7月30日

 この軍令部の会議室で藤田は驚きの連続を味わうことになる。高松宮臨席という事の重大さの上に、アメリカ本土爆撃という作戦。

 藤田はいちばんうえに置かれた地図に目を凝らした。それがアメリカの西海岸を示したものだと気づいたとき、藤田は自分の目を疑った。しかし、井浦が口にした言葉に藤田はさらに驚いていた。
「藤田、アメリカの本土に爆弾を落としてもらいたい」 藤田は言葉を飲み込んだ。
伊四〇〇型潜水艦 最後の軌跡(上巻)』著者:ジョン・J・ゲヘーガン(john J.Geoghegan)、訳者:秋山勝、発行所:㈱草思社、初版:2015年7月30日

 そして爆撃目標がサンフランシスコでもロサンゼルスでもなく、森林地帯であるということ。

「目標は森だ。ここだ」と、井浦は地図を指し示した。カリフォルニアとオレゴンの州境のすぐ北の地である。
 落胆して言葉を失った藤田に、井浦は自分の考えをこう説明した。
アメリカの北西部には深い森林地帯が広がっている。この森がいったん燃え出せば、火勢をとめるのはなかなかできることではない。場合によっては、町がいくつも火に吞みこまれてしまうだろう。こうした森林のひとつに爆弾を落とすことで、敵住民に相当の危害をくわえることができる。それどころか、日本の5,000マイルのかなたから侵攻して、自分たちの工場や家を爆撃できるのだと付近の住民が知れば、大規模な騒乱を引き起こせるかもしれない」
※一部漢数字を数字に置き換えています
伊四〇〇型潜水艦 最後の軌跡(上巻)』著者:ジョン・J・ゲヘーガン(john J.Geoghegan)、訳者:秋山勝、発行所:㈱草思社、初版:2015年7月30日

 この作戦がもたらす最大の狙いは、アメリカ本土の空襲で、敵の太平洋艦隊が再配置を検討することになるかもしれない点にあった。西海岸防衛のため、太平洋で日本と対峙するアメリカの太平洋艦隊を釘付けに出来るようなことになれば、日本にとってはこの上無く都合が良い。

 三ヵ月前のドーリットル空襲(日本本土への初の米軍の空襲)以降、軍令部では以前にも増してアメリカ本土への攻撃を熱心に模索するようになり、通商破壊(輸送船撃沈)や地上砲撃(アストリア砲撃)の任務で並外れた戦歴を有する伊25潜の、田上艦長と藤田飛行長がこの任務に選抜されることとなったわけである。

上申書

 藤田飛曹長が水上偵察機攻撃機に転用してみてはどうか、と思いついたのは真珠湾攻撃が終了した直後だった。

「この艦の偵察機に爆弾を積み、そのうえで、ここよりもはるか先まで索敵できるようになれば、敵の位置を報告するだけではなく、伊25潜とともに攻撃して敵艦を撃沈することができるはずです」
『わが米本土爆撃』著者:藤田信雄、発行所:㈱毎日ワンズ、初版:2021年6月6日

 伊25潜先任将校である筑土龍男大尉(高松宮殿下が海軍兵学校の目をかけていた後輩であり、藤田の妻とは小学校の同級生で仲良しだった縁もあり、藤田の面倒を良くみてくれた上官、後に東郷神社宮司)は、藤田の話を聞いて大いに関心を示し、艦長の田上の署名を書き添えて上申書を第6艦隊司令部へ送った。

 それがこうして高松宮臨席の場で作戦として決定され、昭和17年8月15日午前9時に、伊25潜は横須賀軍港から出撃することとなったのである。

二度目の出撃と作戦結果

 9月29~30日の深夜、ケープ・ブランコ沖合より二度目の出撃。一度目の爆撃同様、焼夷弾投下後に無事に着水し艦に収容される。

最後にハッチから降りてきた艦長が一同を見回していった。
「天祐と神助により、攻撃は二度とも成功した。本艦はこれより帰投する。岡村、この電文を大本営に打電せよ」
 岡村兵曹はすぐさま電信室に取って返し、慌ただしく電鍵のキーを叩いた。
「ワレ米本土空襲ニ成功セリ」
『わが米本土爆撃』著者:藤田信雄、発行所:㈱毎日ワンズ、初版:2021年6月6日

 二度に渡った森林への爆撃であったが、爆撃前日の豪雨で湿気や湿度が高く、延焼速度が遅かったため大火災にならず、山火事にまで燃え広がらなかった。

 そもそも、山火事を起こすにはハリケーン並みの烈風を必要とするという向きもあるが、そのような悪天候では母艦からの発艦が不可となり、作戦上無理があったとも言える。

 だが、実行している当人からすれば、敵の戦闘機に襲われれば、足の遅い水上機は間違いなく撃ち落とされてしまうわけで、そうなる前に焼夷弾は落とさなくては作戦の遂行はならず、決死行だったはずだ。

零式小型水上偵察機(E14Y1、九州飛行機㈱、現渡辺鉄工㈱
パブリックドメイン、出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

名誉市民顕彰

 藤田は、アメリカ本土を空爆してから20年後に、ブルッキングス市より市の最大行事である「アゼリア祭り」に招待を受ける。

アメリカは開国以来、外敵の侵入を許したことがなかった。日米戦争において貴殿はこの史上の記録を破って、単機でよく、米軍の厳重なレーダー網をかい潜り、アメリカ本土に侵入し、爆弾を投下した。貴殿のこの勇気ある行動は敵ながら実に天晴れである。その英雄的な功績を讃え、さらなる日米の友好親善を図りたい」
『わが米本土爆撃』著者:藤田信雄、発行所:㈱毎日ワンズ、初版:2021年6月6日

 当初は招待に疑心暗鬼であった藤田は、四百年前から藤田家に伝わる軍刀オレゴン州空爆時にも所持していた)を持参し、どんな事態に遭遇しても決して取り乱さない覚悟で臨んだが、現地での熱烈な歓迎に心を打たれ、以後ブルッキングス市との交流が続いていくことになる。

 筑波科学万博(昭和60年)にブルッキングス市の高校生4名を自費で招待した際には、当時のレーガン大統領から感謝状と星条旗ホワイトハウスで丸1日掲揚したもの)を授与されている。

 鯉のぼりを寄贈するため現地入りした際には、ブルッキングス市の条例で5月25日を「藤田信雄デー」と定められている。

 海軍時代の教え子であり、藤田の再就職先の社長でもある高森虎太元少尉が、市の図書館建設費を寄付し、その図書館には藤田家の例の日本刀が展示されているという。

 爆撃の50年後には、爆弾投下地点に自ら陸路で訪れており、当人の一周忌には遺族により散骨もされた。

 ブルッキングス市議会より名誉市民として永久に顕彰することが決議され、そのことを知らされた後に死去された(名誉市民章が入院先まで持参された日に死去)。

 きっかけは爆撃であったが、ブルッキングス市との心温まる友好親善の一つの形は、世界で唯一のアメリカ本土爆撃の事実と同様に、覚えておきたいと強く思う。