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【父が娘に伝える大日本帝国の物語】<R003>鹿島海軍航空隊基地跡を訪ねて

 【父が娘に伝える大日本帝国の物語】<R003>本稿は、鹿島海軍航空隊基地跡訪問に纏わる物語です。

 歴史は人の手を介して伝えられるものであるから、そこには取捨選択が有り、伝えられる側も人であるが故に感情が添えられる。置かれた立場により大儀が何通りも存在するから、起こった事実とそれぞれの事情を多面的に捉えようといった意識がいつも肝要だ。我が国の歴史の物語に触れることが、自分の生まれた国に対する興味と愛着、自身のルーツに対する敬意、自分の頭で考える未来に繋がれば嬉しいと思う。

鹿島海軍航空隊

 日本の湖沼では琵琶湖についで二番目に大きな霞ヶ浦の湖畔にある、茨城県稲敷郡美浦村美浦村にはJRAのトレーニングセンターがあり、中央競馬クラシック三冠馬となったミスターシービー(1980年生)やシンボリルドルフ(1981年)を排出している。今から約80年前までこの地には「鹿島海軍航空隊基地」が存在していたが、全国でもめずらしくほぼ当時の姿のまま廃墟化し、現存している。この跡地が、2023年7月22日より一般公開されているということなので、現地入りした。

鹿島海軍航空隊基地、隊門(門柱及びブロック塀は当時のまま、2023.8.19撮影)

 鹿島海軍航空隊は、1938年(昭和3年)に水上機の練習航空隊として発足。世界で唯一の米本土爆撃を実行した伊25潜水艦飛行長の藤田信雄飛曹長が、1943年(昭和18年)2月7日から終戦まで、鹿島航空隊付教官に命じられて所属していた航空隊である。

基地敷地面積:約27.8ha(278,000㎡)・・・東京ドーム約6個分(2023.8.19撮影)

 内地の防衛、搭乗員の教育、鹿島灘における対潜作戦を主な任務とし、最盛期には1,000人を超える大規模な基地であったという。主力機種は「二式水上戦闘機」「九三式中間練習機(赤とんぼ)」「零式観測機(零式練習観測機)」「零式水上偵察機」等であった。

鹿島海軍航空隊本庁舎裏(2023.8.19撮影)

敵機グラマンF6Fとの空中戦

 鹿島海軍航空隊は、関東上空の防衛で米戦闘機との空中戦も繰り広げている。

 1945年(昭和20年)2月16日、鹿島灘沖に敵機動部隊が本土接近中との報告があり、敵空母より、第一波約80機、第二波約90機、第三波約100機、第四波約120機と次々に九十九里浜から米軍機が本土へ侵入。

 これに対して吉田喜八郎少将が指揮する陸軍第10飛行師団は直ちに所属の二式戦闘機及び最新鋭の飛燕を出撃させ、約90機撃墜という大戦果を挙げた(日本側の損害は37機)。
※一部漢数字を数字に置き換えています
『わが米本土爆撃』著者:藤田信雄、発行所:㈱毎日ワンズ、初版:2021年6月6日

 一方、鹿島海軍航空隊の藤田にも出撃命令が下り、9機で出撃し、九十九里浜を目指す。途中、グラマンF6F(13㎜機銃6梃搭載)4機と遭遇し、「下駄ばき」と呼ばれた重いフロートを着けた水上機(7.7㎜2梃搭載)で相対し、1機を撃墜したものの機銃弾を被弾し、霞ケ浦に不時着している。

第三指揮所前の水上機用スロープ(滑走台)、藤田機が出撃した場所かもしれない。

特攻出撃

 昭和20年になると、鹿島海軍航空隊においても、特攻隊志願者の募集がなされ、1945年(昭和20年)5月11日には、神風特別攻撃隊「第二魁隊」として沖縄周辺敵艦隊に特攻を実施している。

 教官として、”命中する最後の瞬間まで目を閉じないこと”と特攻隊員を指導していた藤田自身も、特攻隊に志願し、5月初旬に香取、鹿島の両神宮に参拝した後に、潮来「阿や免旅館」(現存)で最後の晩餐の宴会を催している。その後、愛知県知多半島の第二河和海軍航空隊に移動し訓練中に終戦を向えることとなる。

自力発電所跡(2023.8.19撮影)

気缶場(ボイラー室)跡(2023.8.19撮影)

車庫跡(2023.8.19撮影)

 戦後約80年経つ今もそのまま残されている跡地に立って、意識を無にして「ゼロ・ポイント・フィールド」から何か舞い降りて来ないかと瞑想をする。往時の若者たちの騒めきや錯綜する想いといったものを空想する。

 ウクライナガザ地区のニュースを横目に、平和である有難みと幸せを今一度噛みしめている。

慰霊碑(2023.8.19撮影)